![]() |
番外編
キング・クリムゾン試論 〜ポストモダン風に〜 |
はじめに
本論は、拙作のアルバム評「レッド」に加筆する際、あまりにも話が別の方向へ飛んでしまったため、分割して一つの論文として発表するものである。
元の「レッド」評には、以下のような記述がある。
この72年〜74年にかけてのキング・クリムゾンは、簡単に「第3期」等と一括りにされて語られることが多い。もちろん、基本のメンバー編成が同じである、ということであればその分け方でも正しいのだが、そうやって簡単に分類してしまうことによって、以下の重要な事実を見落とすことになる。
すなわち、
---『太陽と戦慄』『暗黒の世界』『レッド』の中に、どれか1つでも同じアプローチのアルバム(あるいは曲単位でも構わない)が果たしてあっただろうか?--- それだけ、この「第3期」キング・クリムゾンは多くのアプローチを模索し、発展していった。いや、むしろ、前の作品を解体し、再解釈することによって次の作品を作り上げている、ということも出来る。そして、その再解釈の到達点が『レッド』なのである。
本論では、この辺りを具体的に論じることが目的である。
ただし、これはあくまで「試論」であるので、解釈の方法の一つとして受け止めていただきたい。私も、キング・クリムゾンがポストモダンの文脈に位置付けられるかどうか、いささか不安なのである。
解体と再構築
まず、はじめから差異があった。
いちばん顕著なのは、『クリムゾン・キングの宮殿』〜『ポセイドンのめざめ』の間であろう。ファーストアルバムである『クリムゾン・キングの宮殿(以下、宮殿)』が好評をもってシーンに迎えられた後、一年も経たないうちに市場に投入されたセカンド『ポセイドンのめざめ(以下、ポセイドン)』が一作目にことごとく似ている、ということは有名な話である。この類似性をもって、『ポセイドン』を駄作とする向きもある。「一作目だけで脱退したイアン・マクドナルドの遺産を奪って安易な作曲を行い云々……」、という批判である。
七十年当時ならこの批判も有効であったかもしれないが、いまやキング・クリムゾンは三十年以上にわたって独自の音楽を追求してきており、その中心人物ロバート・フリップは各種の三部作など、考え抜かれたプランを持って活動を行っていた、ということが広く知られているので、三十年前の批判を現代に繰り返すわけにはいかない。
もう一度、『ポセイドン』の音に耳を済ませてみよう。「21世紀の精神異常者」と「冷たい街の情景」、「風に語りて」と「ケイデンスとカスケイド」、「エピタフ」と「ポセイドンのめざめ」。確かに『宮殿』と似ていて、単なる自己模倣だ、としても構わないような気もしてくる。しかし、後半において、ある一曲が事態を迷宮へと叩き込むのだ。
「ザ・デヴィルズ・トライアングル」
この曲は、ホルスト作曲の「火星」をキング・クリムゾンなりに再解釈したもので、初期の頃からライヴでは「Mars」とクレジットし演奏している。問題は、この曲の中に『宮殿』に収録されている「クリムゾン・キングの宮殿」の一部分が、ノイズと共にサンプリングされている、という一点にある。
「サンプリング」とは、ただの「引用」ではない。「引用」が、引用対象をそのまま利用し、いわば略奪するのに対して、「サンプリング」は略奪しない。「サンプリング」は引用対象を、引用元とは違う状況に置き、引用対象に対する新たな解釈の道を拓く。「ザ・デヴィルズ・トライアングル」で行われているのもまさにその意味での「サンプリング」である。そこに引用された「アー」という「宮殿」のコーラスは、「宮殿」の文脈の中でだけ「宮殿」のコーラスでありえるため、同じ音が別の曲の中に引用されたとき、それは既に「宮殿」のコーラスではない。そこには引用元とは別の意味が付与されているのである。その別の意味とは、諧謔、或いは模倣の告知である。
もし、キング・クリムゾンが、ただ「一作目だけで脱退したイアン・マクドナルドの遺産を奪って安易な作曲を行」ったのなら、このような告白はするまい。キング・クリムゾンは自らの作曲行為に対して自覚的であったからこそ、このようなサンプリングを行うのである。
そう、『宮殿』と『ポセイドン』の間の類似は、ただの猿真似ではなかったのである。言うなれば、『ポセイドン』は『宮殿』に対するメタレベルの言及なのだ。
そういう耳をもって聴きなおせば、他の類似している曲にも、別の意味が見出されてくる。
「21世紀の精神異常者」≠「冷たい街の情景」
両曲とも、ハードなリフで始まり、抽象的な歌詞を歌う歪んだヴォーカルがあり、リズムチェンジとともにジャズ的なリフが躍動する、という同じ構成を持つが、問題なのはこの両曲の類似性ではなく、むしろその差異なのである。
「21世紀の精神異常者」は、全体を通して一音もずれることのないような緊張感に包まれていて、その緊張感はイアン・マクドナルド主導のブラスのパートに入る前に最高潮に達する。三音のユニゾンフレーズが徐々に速度を上げ、限界に達したところで、せき止められていた水が勢いよく放出するように、次のパートに移る。せき止められていた水は、人為の(プレイヤーの)技巧によって口を開くのだ。その瞬間の技巧の難しさがこの曲全体に緊張感を漲らせている。終盤の超絶のキメフレーズが、愉快なフレーズであるにもかかわらず真剣さをもって聴こえる、ということも興味深い。
一方、「冷たい街の情景」の方では、その手の緊張感はまったく見られない。インストゥルメンタルのパートに移る際も、あっけないものである。今まで真剣な表情をしていた人が、ふとそっぽを向いたかと思うと、ピエロの顔をしている、といった感じである。曲全体がふざけた感じに聴こえるのもそれが原因であろう。
「エピタフ」≠「ポセイドンのめざめ」
この二曲においても同様である。「エピタフ」が混沌の中にある破滅的な美をあらわすのに対して、「ポセイドンのめざめ」は破滅的ではなく、むしろ調和を感じさせるものだ(歌詞も、調和を歌っている)。「エピタフ」のバッキングが悲壮感で統一されているのに対し、「ポセイドンのめざめ」においては、アコースティック・ギターで妙なカッティングをする余裕がある。
つまり、「ポセイドンのめざめ」は「エピタフ」を再利用したのではなく、形だけを借りたのであって、この二曲があらわすものは決定的に異なっている。
単純な模倣が、元ネタの文脈をそのまま流用し、その文脈の中で創造を行うのに対して、キング・クリムゾンが行った「メタレベルの模倣」は、まず別の文脈を用意し、その中に元ネタの文(文脈ではなく、「文(=音)」そのもの)を複写し、新たな解釈を与え、差異を強調する。単純な模倣と、メタレベルの模倣では、ことの主客はきれいに転倒しているのだ。ここに私は、キング・クリムゾンの作曲において重要な位置をしめる「解体」と「再構築」の好例を見出す。
その他にも、いわゆる第二期(メル・コリンズ、イアン・ウォレス、ボズ・バレルの時期)における「マントラ」を別の文脈に置き換えることによって、第三期の「エグザイルス」が作られていること、また、第二期から既に原型は存在した「太陽と戦慄」を積極的に読み替えることによって、第三期の「太陽と戦慄」が出来ていること、などを考えても、この解体と再構築の動きが、キング・クリムゾンの作曲の根幹をなしていることは否定しがたい。
また、この解体と再構築の動きは、近作『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』においても受け継がれている。
「太陽と戦慄」シリーズが続行され、「フラクチャー」をポストモダン的に読み替えたのが「フラクチャード」であることはいうまでもない。タイトルである「突破口(Fracture)」が、「突破済み(Fractured)」へと変化したのは、近代における形而上学体系の袋小路の中で突破口を見出そうとしていたものが、今では、脱構築されたポストモダンの世界の中を飄々として闊歩している(=突破済み)ことを示している。
また、「ザ・ワールズ・マイ・オイスター・スープ・キッチン・フロア・ワックス・ミュージアム」では、「larks'
tongue in cheek bone」「frame by
frame」等と自作のタイトルを歌詞の中に挿入する、というサンプリングまで行ってみせる。語呂合わせ、言葉遊び、といったものを利用して書かれたこの歌詞の中で、過去の曲のタイトルが読み替えられていくのだ。
極めつけは、「Larks'
Tongues」つまり「雲雀の舌」を、「雲雀の鳴声」と読み替え(tongue
には「声」という意味もある)、「太陽と戦慄パート4」の中で、実際に「雲雀の鳴き声」を挿入していることだ(よく気をつけて聴かなければ聞こえない)。その他にも、アルバム『太陽と戦慄』のジャケットのモチーフとなっていた太陽と月が、この新作のブックレットの中でも様々にコラージュされて登場する、等と、例を探そうとすれば、きりがない。ロバート・フリップは、策士だ。
自己批判とポストモダンのロック
まず、前章から頻繁に使用している、「ポストモダン」という言葉について、一言解説しておこう。ここでいう、「ポストモダン」とは、もちろん哲学思想上の、モダニズムの後に来て、近代を解体した思潮のことだが、幾分矮小化している。キング・クリムゾンの音楽を「ポストモダン的」というのは、建築・デザインの領域での運動としての「ポストモダニズム」の意味であって、哲学におけるポスト構造主義とは関係こそあれ、イコールではない。また、ポストモダニズムの主要な特色の一つに、単一の形而上学的原理によらない折衷主義、というものがあり、これがロバート・フリップのいうキング・クリムゾンの本質である「エネルギー・情熱・折衷主義」に対応していると私は思っている。
私がこのキング・クリムゾン論を思い立ったのは、椹木野衣の『シミュレーショニズム』というハウス・ミュージックや盗用芸術を論じた本を読んでいた時なのだが、この『シュミレーショニズム』という本にも、キング・クリムゾンとその周辺に関する興味深い一節があるので、長くなるが引用しよう。
イーノは一九七三年にキング・クリムゾンのギタリストであるロバート・フリップとのコラボレイションで「ノー・プシー・フーティング」を発表している。これは、(中略)基本的にはロバート・フリップ自身によるキング・クリムゾン批判とも言うべき色彩も色濃い。
一九七四年にキング・クリムゾンは、ジミ・ヘンドリックス以降のロックの集大成ともいうべき「レッド」を発表した。ここではロックにおけるインプロヴィゼイションの極限ともいうべき演奏が展開されており、それ以上インタープレイの色彩を強めれば、電気楽器によるたんなるフリー・ジャズとも化しかねない地点で、かろうじてロックたりえている(中略)その表現の強度は文字通り「レッド・ゾーン」へと振り切られており、この限界点をこえて先に進めば、彼らの試みはその実験性においてロックではなくなってしまうことになっただろう。
(中略)このような体制においては、その表現はひたすらクライマックスを目指す。音楽の総体はそれがいつやってくるかは不明だが、確実に実現される楽曲上の頂点へと向けてあらかじめ組織されているといってよいだろう。偶然に多くを負うように思われるインプロヴィゼイションも、その意味では予定調和的にならざるを得ず、その感覚はテーマの導入が終わってインプロヴィゼイションが開始されるときに怒るある種の焦りにも似た焦燥感の暴露によって告知される。
フリップはこの表現のレッド・ゾーンともいうべきクリムゾンの危機を敏感に察知し(中略)、キング・クリムゾンを解散させる準備を始めると同時に、イーノとのコラボレイションによってそれ以降の地平を準備したのであった。
ここには、大きく分けて二つのことが書かれている。一つは、ブライアン・イーノとのコラボレイションが、キング・クリムゾン批判であったことであり、もう一つは、ロバート・フリップの志向する音楽が、クライマックスという形而上学的統合を目指すものから、クライマックスの存在しない平坦なものへと変化していった、ということである。この大胆な指摘は、十分検討する必要があるだろう。
一般的には、イーノとのコラボレイションである『ノー・プッシー・フッティング』は、同時期の第三期キング・クリムゾンの活動に影響を与えた、という風に考えられているし、「太陽と戦慄パート1」のヴァイオリンのパートがイーノの手による作曲であることなどを考え合わせても、単純に「クリムゾン批判」であったと容易には信じがたい。寧ろ、『ノー・プッシー・フッティング』は、同時代のキング・クリムゾンへ影響を与えつつ、それを解体し、次なる八十年代型クリムゾンを用意した、とする方が妥当であろう。椹木は、イーノの思惑を強調し過ぎ、同時代的影響を捨象してしまっているのだ。実際に、第三期の間の楽曲にも、クライマックスを目指さず、平坦性に終始するものがあるのだ。『暗黒の世界』に収録されている「トリオ」がそれである。この曲はキング・クリムゾンの曲の中でも異色だとされるが、異色だとする理由はその東洋的なメロディである、とされ、平坦性には注目されない。しかし、同時期のインプロヴィゼイションの中にも同様の平坦性を持つものがあり、この時期のキング・クリムゾンはクライマックスを目指す楽曲と、平坦性を持つ楽曲との相反する二つの要素を折衷させていた、と見るべきである。
また、私は「クライマックスという形而上学的統合」という表現を用いたが、この場合、想定している形而上学はアリストテレスのそれや、トマス=アクィナスの神学である。つまり、ある存在は、より高次の存在のためにあり、そのより高次の存在は、さらに高次の存在へと統合され、最終的には、最高の目的それ自体としての不動の動者(トマス=アクィナスの神学では、これは神とされる)へと統合される、というものである。
これは、「フラクチャー」や「スターレス」といった代表曲を例にとって考えてみれば分かりやすい。両曲ともクライマックスが分かりやすく存在しているからだ。「フラクチャー」では、ホールトーン・スケールによる不安感を煽るメロディが音圧を上げて反復され、最高潮に達したときに、ロック的な語法の歪んだベースによる転調の合図とともに、ヴァイオリンとギターの飛翔が始まる。いわばクライマックスは二段階存在するのである。最後の上昇フレーズの部分は「太陽と戦慄パート2」に似ており、同じフレーズを上昇しながら執拗に繰り返し、極限まで上り詰め、崩壊する。その崩壊のときの荒涼とした清々しさが長尺な曲全体を支えている。「スターレス」にしても同様である。陰鬱なメロディ部分が終了した後、暗いベースの単調なフレーズがあり、そのフレーズは音圧を上げ反復される。そしてインプロヴィゼイションの開始を告げるギターフレーズがあり、あとはひたすらに頂上をめざす即興が繰り広げられる。
そして、注目すべきは、この手のクライマックスを目指す「形而上学的な」楽曲が、第三期以降、存在しないということである。八十年代型のキング・クリムゾンは、ミニマル・フレーズを反復こそすれ、決して上昇はしないのだ。
この変化は、前述の「自身によるクリムゾン批判(クライマックスを目指す、というパラダイム批判)」の結果と見るべきだろう。八十年代というのは、ちょうどポストモダニズムの思潮や、シミュレーショニズム等の芸術運動が盛んになった時期であり、時代的にも対応し、また、それらの流行の中心地がアメリカであったことは、八十年代に蘇ったキング・クリムゾンがアメリカ人を含んだ、ということに、偶然にも対応している。ちょうどこの頃、ロバート・フリップの頭の中にもそのようなポストモダン的な考えがあった、というには証拠がなさすぎるが、八十年代クリムゾンの優秀なライヴの記録である『アブセント・ラヴァーズ』のブックレットには、それを証明するようなロバート・フリップ自身の記述がある。
スタジオでのパフォーマンスをミキシングするということは、それを解釈しなおすことである。ライヴ・パフォーマンスをミキシングするのは、なおさら解釈である。なぜなら、それはスタジオの中で含みえたものよりも、もっと広く出来事を表そうとするからである。(中略)デヴィッド・シングルトンと私はそういう風にはミキシングしなかった。(中略)
もし、録音されたロック・ミュージックのほとんどのように、スタジオアルバムがそのテクストやスコアの決定版と見なされ、ライヴ・パフォーマンスは、ある特定の理解の、ある特定の解釈というものに過ぎず、そしてそれが、与えられた時、場所、演奏者の文脈の中のものであるとされると、一体何が「決定的(=definitive)」なものなのだろう?
第一に、ライヴ・パフォーマンスされた音楽は、その性質からその場限りのものである。庭いじりと同じようなものだ。しかし、表面上は比較的短いイベントである我々の経験は、我々の生活に深遠で持続的な効果をもたらすかもしれない。簡単に言えば、音楽は我々の生活にまで届き、それを直接、すばやく変えてしまう。我々の経験は連続した時間の中で起こるが、いつもそれに左右されているというわけではないのだ。(中略)
第三に、ポストモダンの世界の中では、特権をもつ地位、特権をもつ解釈、特権をもつ理解、といったものは存在しない。このことは必然的に、実際には特権をもつ解釈や理解がある、ということを暗に意味している。この格言が、一九八四年七月の夕方、モントリオールで行われたクリムゾンの受肉によって解釈されたマテリアルに、あてはまり、そして、ある面ではあてはまらない。(訳:ジョン@ウェットン信者)
どうだろう。ここには、テクストの多義解釈など、ポストモダン的な思考が元となり、その枠の中から抜け出そうとする姿勢さえ見受けられるではないか。ロバート・フリップの思想は、七十年代には錬金術や白魔術といった、形而上学的なものであったかもしれないが、現在では着実に変化しているのだ。
そこにきて、近作の『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』に提示された音に耳を傾けてみれば、そこにもやはり「形而上学的な」音楽は存在しない。「フラクチャード」で、歪んだギターの高速のパッセージが盛り上がるパートはあるが、そこには既にクライマックスへ向かう統合、といったものはなく、冷静そのものである。
と、言っている内に、新作『レヴェル・ファイヴ』が日本でもリリースされた。今年の秋口には、新しいスタジオ盤がお目見えするそうである。
関連項目
『キング・クリムゾン-現在も変わらない進歩の姿勢』
アルバム考『レッド』
2002.3.22
ジョン@ウェットン信者